彼女はふとこんなことを言ったー第1話ー
彼女はふとこんなことを言った。
「雨、降らなきゃいいね」
それは言葉をその言葉通りに受け取れば、「そうですね」なんて簡単に返すこともできるのだろうが、その言葉はそんな簡単な、そんな軽いものではなかった。少なくとも僕にはそう感じられた。
ちょうど3ヶ月前僕らは出会った。大学で同じ授業をとっていて、たまたま席が一つあいた隣だった。僕はペンを家に忘れてしまったので、隣の彼女に声をかけた。
「すみません、ペンを貸してもらえませんか。」
普段の僕なら他の人に自分から声を掛けたりすることなどないけれど、この時はなぜか声をかけた。僕も彼女も一人だった。
「どうぞ」
とても柔らかい声だった。
それから僕は同じ席に座り続けた。彼女も同じ席に座り続けた。ひとつだけあいた先の隣の席に彼女はいた。
その時以来特に話すこともなく、時間は過ぎていった。僕はその授業だけは休まず出席した。彼女も同じように休むことはなかった。彼女は隣にいた。
「あの、」
後ろから声をかけられて身体が少し震えた。それは僕がペンを借りてからちょうど2ヶ月経った頃だった。ゆっくりと振り向くと、彼女がいた。いつも横に座っている彼女が後ろにいる。
彼女の声が震えていたのに気づく。顔をよく見ると涙で濡れている。
「ティッシュ持ってませんか」
少し戸惑いながらも僕はポケットからティッシュを出して彼女にさしだした。彼女は「ありがとう」と言ってティッシュを受け取り涙を拭いた。
授業が始まった。先生はいつも通り淡々と授業を進める。
いつも横にいる彼女が後ろにいる。
授業中後ろの彼女が気になって仕方なかった。僕はその時なんて声をかければよかったのだろう。
授業が終わった。彼女はもう1度僕に「ありがとう」と言ってすぐに席を立って教室を出た。
僕は何か言いたかった。でも言えなかった。言いたいことがうまく言えた試しはない。
1ヶ月後の授業の日、ここ最近で梅雨入りしたこともあり、その日は雨がひどく降っていた。雨が降っている日は教室に人が少ない。そんな気がする。僕はいつもの席に座り彼女もいつもの席に座っている。僕の後ろではなく、僕の隣に。
彼女の顔を見るとやはりあの出来事が思い出される。なんで泣いていたのだろう。
雨の音が教室に響き渡る。強い雨だ。雨の匂いがしてくる。
授業中は授業に集中しようと思うが、なかなかできないもので、いろんなことが頭の中に出てきては消えていく。また出てきては消えていく。
授業が終わり外に出ると彼女は何やら傘立てで自分の傘を探している。そして傘をとって外に出た。雨は止んでいた。
彼女は僕の方を見て言った。とても急だった。
「雨、降らなきゃいいね」
僕は何も言えなかった。彼女は傘を手に持って歩き出した。雨が降ってなくてよかった。僕も少し空を見上げながら軽く足を踏み出した。
彼女が持っていたのは僕の傘だった。
次の週、彼女は僕の隣にいなかった。次の週だけでなく、それからずっと彼女は授業に出なかった。教室を見回したりした。でもどこにも彼女の姿はなかった。あの日の彼女の言葉はなんだったのか。僕は忘れない。
「雨、降らなきゃいいね」
あいつはなんであんなことを僕に言って、それからすっかり姿も見せなくなったのか。それはただの言葉のようには思えなかった。いや、そんな深い意味はないのかもしれない。でも、その言葉を言ったのは彼女だ。そして、それを聞いたのは僕だけで、あの涙を見たのも多分僕だけだった。