自己表現の輝き
先日、高校生のダンスを見に行った。
7人くらいで踊るダンス。
目を離さず、見続けた。目が離れなかった。
一人ひとりに目を向けたり、全体を全体として見たり。
僕が住んでいる世界とは、あまりもかけ離れているようで、僕には輝きすぎていた。
前で踊っている人も後ろで踊っている人も、舞台に上がる全ての人が輝きを放っていた。
美しかった。カッコよかった。
僕もあんな風に踊れたらな、とも思った。
僕はダンスというものとは関わりなく生きてきた。
小学生の時に授業でダンスをした覚えがあるが、それ以降はほとんどダンスをした覚えはない。
だから、ダンスというものは、ほとんど知らない。
でも、「ダンスは全員が綺麗に踊りを揃えている方がいいのだ」という考えは正しいことだろう、ということで今まで受け入れてきたように思う。
今回見たダンスも振り付けは全員同じ。時に、個人で異なる振り付けがあるけれども、ほぼあらかじめ決められたダンスを全員が同じように踊っている。ここでは、全員がふりが同じになるように踊ることが大事、そう考えていた。
今回見たダンスでも、一人一人が同じふりになるように、きっちりと自分の役割を果たしているように思った。そのように感じるところもありながら、僕は少し他の感じ方もしていた。
チーム全員が協力して、ふりをあわせていくこと、もちろん合わせることも大事だけれど、
あらかじめ決められたダンスの振り付けの中で、その中で自分というものを必死で表現すること
も重要なところではないかと思うのだ。あくまでダンスとはかけ離れた人が言っているものなのだが。これは見るものの視点からだから言えるものなのかもしれない。
本当にそうだった。振りが同じように見えて、一人一人少し異なっているのだ。全く同じもまた綺麗であるが、少し違ってその人ならではが出ているのがいい。
とてもよかった。
振りは同じ。でも、一人一人違う。
僕は今回ダンスというものを改めて見て、それって素晴らしいことではないかと感じたのだ。
僕もこの場で自己表現をしている。
決められた枠があまりあるわけではないけれど、自分を出している。
自己を表現しようとしている人は輝いている。そう思いながら僕も書き続けていきたい。特に輝きたいというわけではないのだけれど、自分が出せればいいなと思っている。
あと、今回のダンスでは、おへそを出して踊っている高校生も何人かいた。
それを
セクシーと思うか、お腹を冷やすなよと思うか。
これは何かの分け目ではないかと思ったのだ。
ちなみに、僕はだいたいセクシーだと感じて、たまにお腹を冷やすなよと感じていた。