自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ
「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」
と、ほぼ日手帳の今日の言葉に書かれていた。3月21日、今日。
これを、自分に当てはめてみた。
すると、21÷3=7時となった。
僕は今、24時間の中の7時にいる。
朝だ、午前中にいる。しかも、普段の僕はまだ起きていない時間だ。
まだ行動を始めていない、ベッドにいる時間。
この言葉は、若者を励ますためにつくられた言葉だろうと思っているのだが、確かにそうだろうか。「あぁ、俺はまだここなのか、大丈夫や」とか、「私はまだ起きてないよ、これから何だってできるじゃん!」とか。勇気を持たせてくれる、大きく自信を持たせてくれる言葉だろう。
でも、僕がまだ7時にいるという事実は、僕を明るくさせてくれると同時に、少し悲しくもさせる。
まだ7時だと言うこともできるし、もう7時だと言うこともできる。
まだ7時だから、これから何だってできる。何だって始めることができる。そう思うことができる。
一方で、僕は普段、一日の短さ、一日の儚さをとても深く感じている。あっという間に時間が過ぎてしまうということを実感している。1日はどんどん僕を追い抜いて流れていく。1日の終わりはこうも早く迫ってくるものか、と日々感じている。
僕は7時にいる。7時のところで遊んでいる。
このままだと、あっという間に過ぎていくだろう。あっという間に午前中が終わり、午後になり、1日が終わってしまうだろう。
そうならないように、明るく前を向き、1時間1時間を大切にしていかなければならない。
悲しさや虚しさに打ちひしがれるのではなく、そんな暇もないくらい、7時から針を一分一秒、大切に進めていく。
これまでの7時間を自分はどう過ごしてきただろうか?そんなことを振り返りもする。
7時は起きる時間。もうそろそろベッドから抜け出して、外に出る時間だ。ベッドから出ても、そこでこたつへ潜り込んではいけない。外に出て朝日を浴びて、1日を過ごしたい。これからの1日を大切に過ごしたい。日が暮れるまでにできることは山ほどある。できることをしていく。
僕が必死に動いていれば、時間は僕に追いつけないだろう。
僕は時間さえも追い抜いてしまうだろう。
文章を書くことは僕にとって戒めでもある。
これは紛れもなく戒めだ。僕にとっての意思だ。希望だ。
意思を叶え、希望を果たす。
自分へ向けられたこれらの言葉を、書いただけにとどめていてはいけない。これを自分に向けられた手紙として、確実に受け取り、返事を返さなければならない。
今日も針は進んでいる。僕に関係なく、刻々と。