その言葉を誰が言うか
その言葉を誰が言うかによって、言葉の意味は変わってくる、という点について最近よく考えている。
鴻上さんの人生相談をいくつか読んで、感じることがあった。
https://dot.asahi.com/columnist/profile/series/?series_id=hogaraka-jinsei
この言葉たちを、ほかのだれかが全く同じ文章で書いたとしたら、言葉の重さや意味はまったく同じなのであろうか。
この記事での言葉は鴻上さんだからこそ言えた言葉ではあるのだが、たとえそれを同じように誰かが言えたとしても、それはまったく違うものになるだろう。
誰の口を通してその言葉が発せられているかが非常に大事なことなのだと思っている。誰のフィルターを通して言葉が紡がれているか。
全く同じ言葉なのに、それが全く違う意味を持ったりすることもあるのだから、面白い。
歌はそういう点があるかもしれない。
米津玄師の歌を、僕がまったく同じメロディーとまったく同じ歌詞で歌ったとしても、聞いてくれる人がいるとは限らない。いや、多分いない。声がたとえ一緒でもね。それは僕に実績がないからだ。歌という点においては価値がない人物であるからだ。
米津玄師だから僕たちは聴こうと思うのだ。
言葉の説得力とでも言おうか。
どういう人だったらその言葉を受け止めようと思うのだろう、ちょっときいてみようかと思えたりするのだろう。
そこには実績がある。信頼がある。積み重ねがある。
言葉を受け取ってもらうために、してきたことが数え切れないくらいある。
僕はいま誰かに信頼されているのだろうか。
よし、お前なら任せてみようか、と思われているだろうか。
僕の言葉を本気で受け取ってくれる人がいるのであろうか。
いや、信頼もないし、任せられるほどの実績もない。
だから、信頼をつくっていこうとするのも違うと思う。
信頼されるように、言葉を受け取ってもらえるように、と考えすぎてしまうとよくないと思う。
ひとつひとつ自分ができることを積み重ね、努力していくだけだ。実績は努力によって作られていくものだと思う。
ただの積み重ねではダメだけど、努力し、実力と実績をつくりあげていけば、必ずどこかで誰かが見てくれる、どこかに結びつくと信じて続けていくしかない。
あの人が言うんだから正しいとか、あの人が言ってるからやってみようと言う考えは、間違いもあるけど、それはそれで良い結果をもたらすこともある。
僕はいままでいろんな人の影響で本を買ったり、映画を観ることがあった。それはハズレもいくつかあったけど、あたりの方が多かった気がする。
それは紹介されたものに、バイアスがかけられているからかもしれない。本を読む前から、もう良いものとして受け取って読み始めるのだ。
僕が言う言葉を、誰がどれだけ、信じるというのだろうか。それをそれとしてちゃんと受け止めてくれるというのだろうか。