僕だって批判されるものになるかもしれないこと
昨日こんなブログを書いた。
なんか最後よくわからない終わり方になってしまった。結局何が言いたいのか、よくわからない。話が飛びすぎている。確かにそうだ。
僕が昨日のブログで言いたかったのは、確かに、中日ファンとしてあの人の野次は批判ものなんだけど、それでその人を排除しようとするのは、そういう気持ちに至るのは、それも批判ものじゃないのかなということ。僕はそんなことを考えていた。それを書きたかった。で、今日のブログでは、もう少しそれに書き足す。
一目見た時は、あぁ嫌なニュースだなぁ、同じ中日ファンとして情けないなぁと思うのだが、この人を中日ファンから排除しようとするのは、どうなのか。僕もそういう考えに至ってしまったなぁと少し反省的に感じている。
多分、この人は中日ドラゴンズというチームに、多分野球にも熱い想いがある人なんだろう。多分だけど。そういう側面を僕は見れていなかったなぁ、と。この人は反省をしていることもこのニュースの文面から読み取れる。反省しているからいいというわけではなく、もちろん発言した言葉は許されるものではないのだけれど。
この記事の一番最初のところで、吉本隆明さんが語っている言葉を僕は考えています。
例えば、法律がいう意味合いでの
凶悪犯罪、詐欺、そういうものは、
ごく何も考えない判断では、
「悪いことは悪い」です。
だけど、凶悪犯罪をしたから凶悪な男だとか
そういうふうにはちっとも思えないし、
また逆に、自分がいつ凶悪犯になるか
それもわからないですよ。
まさかやるとは思ってもみなかった。そういう人には見えなかった。こういう言葉をよくニュースとかで加害者の知人とかが喋っているのを耳にする。
まさに、僕だっていつ暴言を吐くかわからないですよ。凶悪犯になるかもしれません。怖いですね。僕だって怖いですよ。