追い風の時に考えること、向かい風の時に考えること
風の強さに心が揺さぶられることは、ちょっとじゃなく、案外多くある。
待ち合わせの時間に間に合わなくて、急いで自転車をこいでいる時に、向かい風だとかなりイラつくことがある。
風にどうこう言ったって仕方ないのに、風に向かってバカヤローなんて叫んだりする。残念なことに、風のせいで遅れたなんて言い訳は成り立ってくれない。
イラついても意味ないとこにイラつくことがある。余裕をもって家を出ればいいのに。
向かい風のときは、風のことを考えるから良くない。
風のことから目をそむけよう。
今日の昼ごはんはなに食べよう、とか。昨日のあのドラマは面白かったな、とか。
そうすれば案外向かい風を乗り越えられたりする。
あと、いま反対方向に進めば、いま引き返せば、追い風になるのだな、と思うこと。これは自転車に乗っている時だけじゃなくて、いろんなことに言えるかもしれない。
向かい風は、見方を変えれば、追い風でもあるのだ。進行方向によって風の向きは変わる。
いつだって引き返せる。少しくらい後戻りして追い風に乗って、それからまた向かい風に立ち向かうのもいい。
逆に向かい風の時は、ほんとうに自転車をこぐのが楽だ。ぐんぐん進んでいき、気持ちがいい。
自分がまさにヒーローにでもなった時のように、思いっきりこいで面白いように前へ進んでいく。
だけど、スピードの出しすぎは危険だ。風に乗りすぎるのも、危ない。
これも同じようにいつだって向かい風に変わるかもしれないと考えることだ。
いつ追い風が向かい風に変わるかはわからない。
よいことをしているときは、少しわるいことをしているように思え、というのをどこかで読んだ気がする。
調子のよいときは、その調子のよさばかりを考えるのではなく、ちょっといろんな場合を考えておいて、危険を免れるのがよかろう。
追い風がいい、向かい風がわるいなんてことはない。どうとでも変わりうる可能性を含んでいる。いまは追い風だけど、すぐに向かい風が来たり、いまは向かい風だけど、すぐに追い風が来たり、それは急に訪れることもあるだろう。
また以前に書いたようなことを書いちゃうけど、ようは物事のとらえ方だ。どうとらえるかで気分がずいぶんと楽になったり、機嫌よく生きられる。
物事をどう受け止めるかで人生は変わる。
あと、ぼくはよく現実から逃げている。目の前で起きていることとは違うことを考えたり、それについては自分がかかわることではない、自分の課題ではないと、目を背けたりしている。無視することも生きる上での方策である。
時間が解決してくれることもある。なんとなく別のことをしていたり、別のことを考えていたら、すっとつらい道から抜け出せたり、そのつらさがいなくなっていることだってある。
まぁ追い風でも向かい風でも、風であることに変わりはない。
風はなにかものに触れることによって、それを感じさせる。葉を揺らせばそこに風があるのだとわかる。風が目に見えるようになるのだ。こんなことを村上春樹が言ってたっけな。
風は自らにぶつかってくるから、それが風であるとわかるのであって、本当はいたるところに、僕たちが感じることのできない風というのがあるのだろうなと思う。
感じれるから風であって、その僕たちがとうてい感じることのできないものは風とは呼ばないのかもしれない。
でも、どこやかしこで、僕たちが知りえない、感じることのできない風がきっとあるってなんとなく思いたい。そんな風たちのことを考えていると、あぁ僕に風を感じさせてくれてありがとう、って思えるのだ。
風、ありがとう。また僕の身体をそっとなでてくれ。そっとじゃなくても、激しいのでもいいよ。
追い風、向かい風、どちらもありがたく受け止める。