何もしないこと、じゃまをしないこと
昨日こんな記事を書いた。
そこからまた少し新たなことを考えた。
やる人がいれば、やらない人もいることについて。やる人とやらない人がいるとき、どうしてもやる人ばかりに目がいく。やる人はやっぱり評価されたり、認められたり、大事な存在として認められていく。でも、やる人の裏にはやらなかった人がいる。
やらない人はやらないをやっている。
以前、糸井重里さんがツイッターでこんなことを言っていたのを思い出した。
なにかすばらしいことをやった人がいるとき、近くにいる人がなにを協力したかということを考えると、「じゃまをしなかった」という手伝い方が最も多いのではないだろうか。すごいことなんだよ、「じゃまをしなかった」って。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) March 17, 2017
何もしないこと、じゃまをしないこと。
ある人がまだ話している途中なのに、その人の意見をすぐ否定したりする人、話をさえぎってしまう人。
やる人をやらない人へと仕向けようとする人。
レンタル何もしない人という人の存在。
何もしないことと、じゃまをしないことって少し違うかもしれないが、このあたりの価値というものを忘れてはならないのではないか、なんてことをぼんやり考えている。
昨日の話では、話さなくていいことを、今日の話ではやらなくていいことを自分の中で正当化させようとしている。
どうしてもそうやって言い訳のように考えてしまう自分がいる。
もちろん、話すことだってやることだってそれはそれは大切なことだったりする。
なんか今日のこのことは、自分の中でも全然まとまってないことなんで、また何か思いついて、考えて、進展があれば書ければと思う。