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日々考えたことを書き残す

ギブアンドテイクの話、wishをshouldに変えて腹を立てるな

あいさつは返ってくることが前提であると思わない方がいい。

見返りを期待しない、ということだ。

 

ギブはそこに存在しても、テイクは必ずしもそこに存在するわけではない。

 

ギブとテイクは1:1で存在するのではない。

 

その割合は10:3、いやそれは良すぎるかもしれない。

極端に言えば10:0となることだってあるのだ。こちらがいくら与えても、返ってこないことがある。それは質の場合にも、量の場合にも言える。

 

そもそも、こちらが相手に与えている、という考え方はやめた方がいいと思う。してあげる、やってあげるという考えは、相手からの何かしらのお返しを求めているのが丸見えだ。お返しを求めるのってかっこ悪い。

 

ギブとテイクを軸に考えない方がいいのかもしれない。

 

ギブとテイクがセットであると考えていると、どうしてもテイクありきのギブになってしまい、それは人に簡単に伝わるし、見返りを求めていることがわかると、なんか冷める。

見返りを求めている人に、見返りをしようと思わない。

 

さりげなく、それをすることができる人がかっこいい。

ただ、こちらが何かをするという、ただそれだけのことだ。

 

 

こちらがあいさつをしても、相手からあいさつが返ってこないという経験をしたことは誰しもあるのだろうと思う。

 

そういうときって結構落ち込んだりしないだろうか。

ちょっとイラっとしたりもしないだろうか。なんで返してくれないのだ、と。

 

この場合相手に自分の声が聞こえていなかった、そもそも聴覚に障害のある人だった可能性もあるのだけど、それを勝手に除外してイライラしたりしている。それも問題であったりする。

 

 

こちらがあいさつをしたのであって、向こうはあいさつをしなければいけないなんてことは絶対にない。絶対にだ。

 

自分の課題と他人の課題を分ける。

 

あいさつを返すのは他人の課題である。他人の課題について僕たちは何もいうことができない。それは他人がすることなのだから。他人の課題であるのだから。他人の課題になに振り回されてんだということになる。

 

あいさつを返して欲しいのは、自分であり、それは自分が返して欲しいと思っているだけであって、相手にとってなんら関係がない。

 

 

人に対するwishをshouldに変えて腹を立てているようではいけない。

自分のwishと他人の行為は独立のものである。

 

最近、上の文章をどこかで読んでメモしていたのだが、どこで読んだのか忘れてしまった。とにかくメモはするのだが、引用元を書き記すのを忘れる。

ラインを早く返してほしいというwishは、返すべきというshouldに変わらない。

 

 

 

ただ、これは言っておきたいのだが、することを諦めてはいけないということだ。

どうしてもあいさつを返されない経験があると、あいさつをしなくなってくるけど、それはよくないよな、と。

 

向こうがそうなら、俺だってやらねぇぞ。そうなってしまうけど、俺はやるのだ。

 

自分はするのだ。相手がそうだからとか、そんなことは全く関係がない。

ここでは、相手によって自分を変えているようではよくない。

 

ギブアンドテイクで考えない方がいいかもしれないと言ったが、成り立てばそれはギブアンドテイクになる。前提としてのギブアンドテイクではなく、結果としてのギブアンドテイク。

 

あきらめず、こりずに、ギブをし続けた者だけが、テイクというご褒美をもらえる。テイクという結果が生まれる。

それはとっておきのご褒美で、特別なもので、限りないもので、偶然的なものなのだ。

そう考える。

 

絶えず、あきらめずギブしつづけたものだけが、やっとのことでテイクを与えられたり、与えられなかったりする。

 

ただ、テイクを求めず、闇雲にギブすりゃいいってもんでもない。ギブにもギブでこれは相手に合わせてということになる。ここは相手に合わせるところだ。

 

 

ギブされた場合はテイクすることを考える。僕は出来るだけそう考えている。たとえテイクをしない人がいても、それについては何もできないが、自分はテイクをおこなえる。

 

そのテイクは次の自分のギブにつながり、それが次のテイクにつながったり、つながらなかったりする。ギブされたら、それが次のギブにつながる。テイクとギブが一体化する。ギブアンドギブになるとも言えるような気がする。

 

 

話がぐっちゃぐちゃになっているが、まぁつづけていろんな頭に浮かんだことを書きたいように書き、ぐちゃぐちゃにしていく。ぐちゃぐちゃをさらにぐちゃぐちゃにね。ぐちゃぐちゃであることに変わりはない。

 

 

『野の医者は笑う:心の治療とは何か?』という本の中で、癒された経験をしたことがある人が癒す方にまわることが多い、みたいなことが書かれていた。

子どもの時に先生に自分の病気を治してもらったから、僕もあの先生みたいに誰かの病気を治したい、救いたいみたいに思うことはよくあることだろう。 

 

それと同じようなことで、ギブされた経験を多くしたことがある人は、ギブする側に回るのではないかと思う。

 

 

無理せず、相手のことを考えつつ、ギブを前向きにおこなっていく。

 

 

 

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