世界はこんなに素晴らしい

日々考えたことを書き残す

ほんはほんとにいいもんだよ、買って眺めることも読むことも、

年末に部屋の片付けをして、その時にごっそり本を売った。30冊ほど。ごっそりってほどでもないか。それでも、あと100冊近くは本棚におさめられていたり、ベッドの下に眠っていたりする。

 

最近意識的にAmazonや本屋に立ち入らないようにしている。どうしても気になる本があって買ってしまうからだ。

 

今年こそはと意気込んで本をなんとか読もうとしているのだが、すぐ違うことをしてしまったりなかなか本と向き合えていない。ほんとはほんをちゃんと読みたいのだ。

 

今本棚に並べられている本たちを見てこれからの楽しみの顔を浮かべている。今年中に全て読みたい。本というのはあふれすぎている。読みたい本が次々に出てくる。

 

図書館に行ってまだ自分はこんなに本が読めるんだと嬉しくなった人もいれば、死ぬまでにまだ読みたい本が山ほどあるのに限られた時間では読めないではないかと絶望する人もいる。

 

僕は希望派でもあり絶望派でもあるかもしれない。

本棚を眺め、希望を持ち、ついて絶望も感じる。

 

僕にとって本を読む作業は苦しいものではない。文字を追うということに苦しみは覚えない。だったら読めるんじゃないのかと思うけど、そうじゃない。苦しくなかったら全てのことが簡単にできてしまうのか。

 

僕は少し甘えている。まだまだこの先長いのだから、この本棚にある作品は全て読めるだろう、と。いや、そんなことどうして言えるのだ。僕は明日で死ぬかもしれない。今はそこに見えて手に触れることができる本も、明日にはそれができないところへ行っているかもしれない。僕は永遠ではない。本は永遠か。いや、それもまた違うが。

 

 

今、乃木坂46高山一実さんの『トラペジウム』を読んでいるところだ。その本を読み終わることを目標にし、次にまた読む本を決め、それが読み終わることを目標に据える。

この小説を読むまでは死ねないとか、この映画を見るまではどんなことがあっても生きるとか。そういうのが生きる意味であってもいいと思う。生きる糧にそれがなればいいと思う。

 

僕はようやくそういう生きる意味や生きる目標を見つけつつある。

 

 

 

雑の中でも下の下のような雑さのブログをいつも読んでくれてありがとうございます。

僕はこのどこやかしこ飛んでいく、「結局何が言いたいねん」と突っ込まれるようなブログを、どこかの誰かが読んでくれていることを本当に嬉しく感じている。それがまた書こうと思えることにつながっている。