人のために生きるのが好きな人がいる
誰かのためにやっていることが誰かのためにならないことはいくらだってあるし、それはたいてい自分のためだったりするし、結局は自分のためにもならなかったりもする。
想いだけではダメなことがある。想いは伝わらないことがある。
優しさの暴力の話は以前もしたことがある。
優しさが迷惑になることがある。その人のためと思ってやっていることが、逆に
その人を苦しませたり、その人の幸せを奪うことがある。
この鴻上さんの人生相談を是非とも読んでほしい。
https://dot.asahi.com/dot/2019040500077.html
話を聴いてあげることが決していいことではない。それは自分勝手なものになってはいないだろうか。人のためになると自分で勝手に思っているだけではないだろうか。
人のために生きるのが好きな人がいる。
それはそれで素晴らしいことだと思うし、人のために生きれること、生きようと思うことは素敵なことだと思う。
ただ、人のためにやっていることが、本当にその人のためになっているのか、その人の気持ちに沿ったものになっているのかは考えるべきだと思う。
手を出し過ぎず見守るというのは、本当に難しいものだ。何もしないって難しい。
映画『ソラニン』に確かこう言うセリフがあった。
大切な人が真剣になったときは、黙って見守ってあげようよ
僕たちはついつい助けようと、手をさしのべたがる。
人間はどこかで誰かの役に立ちたい、助けたい、そういう心を持っている。持っていると信じている。
だからこそ、そういう助けたい人の気持ちを踏みにじりたくはないと思ってしまう。
そう思っている人は多いだろう。
だけど、その関係はお互いつらいし、まいっちゃうときがある。いつかバタッと倒れてしまうことがある。お互いの気持ちが合わないとうまくいかない。
どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題か。これは『嫌われる勇気』という本で述べられていることだ。他者の課題に踏み込まないこと。自分の課題と他者の課題を切り分けること。
良いことをしていると思っているときは、少しくらい悪いことをしていると思え。
これは誰かの言葉で、聞き覚えがあるのだが、忘れてしまった。少し文は異なるかもしれない。
どちらかというと、僕も人のために生きるのが好きな人間だと思う。人のためになることで幸せを感じたい人物だと思う。
だけど、これも、人を餌にして自分の幸せを考えていることになるんだよな。
本当に人のために生きる、というのはかなり難しいことなのかもしれない。両者が本当に満足することなんてめったにないのかもしれない。
それでも、やっぱり誰かの役に立っていたいと思うし、誰かのために一生懸命生きたいと思う。