自分への価値づけ
自分の価値みたいなものを考えることがある。
僕にはどんな価値があるのだろう。
それはどこかで周りから価値づけされることを、僕自身が望んでいる証拠かもしれない。価値づけされたい。
映画『横道世之介』で、「あいつに会えたというだけで、僕はあいつに会えてないお前なんかよりよっぽど得した気がするんだよ」というセリフがある。(たしかこんなセリフだった気がする。あいまいだ。)
こんなこと思われたい、みたいな気持ちがどこかであるのだ。そういう人物でありたいなと思うのだ。
相手に価値ある人物であると思われたい。得したとまでは言わないまでも、あいつとこの人生で出会えてよかったなぁと思われる人でありたいとは思っている。
でも、自分への価値づけってなんのためにあるのか。
自分に価値づけすることは、相手に思ってもらったり、考えてもらったり、その価値を認めてもらうことが目的なのだろうか。
そりゃ相手から認められたり、自分の価値が受け入れられるとうれしい気持ちになる。だけど、それで、ただそれだけでいいのだろうか。
自分の幸福のため、自分が生きていくための価値づけでありたいと思う。
相手からの承認のための価値付けじゃなくて、自分のための価値付けでありたいと思う。
結局その自分のための価値付けが、他人からの承認の価値付けに繋がっていくのが、理想なのかなと思ったりする。
相手に認められたいがために、価値付けをしていくと、そこに苦しみが生まれてしまうような気がする。
自分を高めるために、自分のために、価値付けをしたい。
僕は今日も本を読んだり、映画を見たり、勉強をしたりしている。
それはなんのためにやっていることなのか。誰かに認めてもらうために、やっていることなのか。
いや、違うだろう。
自分を高めるために、自分が幸せだからやっているのだろう。
自分への価値づけは、自分のためでありたい。常にとは言わないけど、出来るだけそうでありたいと思う。