人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う
誰かに自分のことをわかってほしい、理解してほしい、知ってほしい。
そういう感情になることは多分、あるだろう。
新聞配達のアルバイトを始めてからというもの、ほぼ毎日新聞を読み、気になった記事や大事だなと思ったものはスクラップしたりしている。
以下の、「慈しみの心」という記事は、毎日1面の端に載せられている。様々な短い言葉が毎日載せられている。
毎回、なんらかの学びがあって、必ず読む場所になっている。
特に大切にしたいことが書かれていた場合は、切り取ってノートに貼り付けておくのだ。
相手のことをまず知るということ。
自分のことを理解してもらいたいという気持ちがある。
だけど、それよりも先に、お前は相手のことをどれだけ知っているというのだ。まずは自分から知る、理解することが大事ではないのか。
相手のことを理解せずに、自分のことを理解してもらおうと思っても、それはうまくいかない。
理解するが、理解してほしいに先立つ。
こういう文章を読むと、あぁ俺ってどれだけ自己中心的なんだよと思う。自分の今までの人間関係を振り返ってそう思うのだ。
自分のことばかりで、誰かに認められてくて、自分のことを理解して欲しくて、それだけのことで躍起になる。
自分のことばかりで、誰かに認められたくて、自分の気持ちを理解して欲しくて。
そればかりで、相手のこと、自分以外のことに関しては、理解できていなかったり、知らなかったりする。理解しようとしたり、知ろうとする姿勢が持てないことだってある。
自分を知って欲しかったら、まずは相手のことを知れ。
相手に理解して欲しかったら、まずは相手のことを理解しろ。
もちろん、相手のことを知ったからといって、理解できたからといって、自分が理解されるわけではない。認められるわけではない。
むろん、相手のことなんか簡単にはわからないし、理解できるなんて不可能だといえる。
この世にはわからないことや理解できないことがたくさんある。自分のことだってそんなに理解しているわけではないのだから、ましてや自分以外のことなんて簡単に分かりゃしないのだ。
それでも、理解できないからといって、理解することを諦めてはいけない。
知ることができないものだからといって、知ることを諦めてはいけない。
理解することや知ることには幅がある。完璧に知ることは無理でも、少しでも知ることはできる。もっと知ることはできる。よく理解することができないことはない。思い込みの理解ではダメだけど。
理解できないとわかっていても、理解しようとする姿勢をもつ。
自分のことを理解してもらおうと思ったなら、まずはその理解してもらいたい相手をとことん理解する姿勢をもつ。
姿勢が大事だ。その姿勢はいい意味でも悪い意味でも、簡単に伝わる。
知ってほしい、理解してほしいに自己中心的であるのも良くないし、知りたい、理解したいに自己中心的であってはいけないというのも言える。
知りたい、理解したいはかなり自己中心的なものだ。特に人と接するときに、それは気をつけなければいけない。