遅いっていうのは、他人についてもそうだけど、自分が一番そうなんだ
ある大切な人が死んでしまってから、私には何もできなかった、とか、なんでもっと早く会いにいっておかなかったのか、とか、そういうことで後悔をしたりする。
死んでしまってからでは、何もかもが遅く感じる。これっぽっちも後悔のない死はないのだろうと思う。
死んでからでは遅い。これは他人の死について言えることだけど、やっぱり自分が一番そうだ。
死んでしまってからでは遅いよという言葉は、自分ではなく相手の死のことでよく使われている言葉のような気がするが、相手の死よりも自分の死だろうと思う。自分が死ぬ前に遅過ぎてはいけないのだ。
自分が死んだら何もかもができなくなるのだ。死んでからでは、遅かったなんて思うこともできない。
もっと早くやっておけばなんて思うことができない。
物事を始めるのに、遅いなんてことはない。
これはまさにその通りであるだろうが、遅いなんてことはないのだから、そんなに早く始めなくてもいいだろう、そういう気持ちの逃げへの言葉として受け取っているようではいけない。
とにかく、一番は、自分が死んでからでは遅いのだと思う。僕たちは他人の死しか今まで実感を感じえない。それでもその死の実感は他人であり、決してすべてを理解するなんてことはできない。
死というものはよくわからないし、自分が死ぬなんてことはあんまり普段考えられなかったりする。
でも、いつかは死ぬ。
僕たちはいつか死ぬけど、のんびり言い訳しながら、後々の後悔なんて考えることなく、やるべきことややりたいことを放ったらかしたりしている。
やりたいことリストを叶えていくみたいなドラマや映画があって、それに今までほとんど共感できなかったのだが、今なんとなく本当にやりたいことを挙げて、それを早くすぐに行動に移すことが大事なのかなと思ったりする。ああいうドラマに影響されている。
死んでからでは遅いというのは、自分自身が一番そうなんだ。
自分の死は、どうも想像しづらいけど、死んだら何もできなくなることがなんとなく怖い。
僕はあと何年後かに死ぬかもしれない。いや、明日死ぬかもしれないし、あと1時間後に死ぬかもしれない。
人生何があるかわからないというのは、ドキドキもするけど、本当に怖いことでもある。
だけど、怖いからって、何もしない訳にはいかない。いつまでも怯えているわけにはいかない。
僕たちはその怖さをどこかで感じつつも、何かをすることでそれを紛らわせながら、生きている。
生と死の境界線はたった一歩で超えられる。倒れこむだけで、向こう側に行ける。死ぬことができる。
紙一重のところでなんとか生きたえているけど、あちら側に行こうと思えばすぐ行けるし、死に向かう瀬戸際にみんないるのだと思う。
ただ、生から死へは行けても、死から生へは行けない。たぶん。考え方によるけど、死んだらもうこちら側に戻ってくることはできない。
僕はまだ死にたくはない。まだやりたいことがたくさんある。
それは死んでからできる事ではないと思っている。死ぬ前にやるべきことなのだ。
死は案外遠くない。だから、死ぬ前にやりたいことをやっていく。遅すぎないうちに。
死んでしまってからでは、何もかもが遅い。遅すぎる。
それは他人だけでなく、自分が一番そうなんだ。自分のために。