美女がいれば1日いや、一週間は機嫌がいい。
店に入った瞬間に、ハッとした。
はるやまにスーツを買いに行った。
たいてい、店内に入るとすぐに声をかけられる。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?もしよろしければ、お伺いしますが」
自分一人でゆっくり見たいんだ!みたいな人もいて、こういった声かけが苦手だと言う人もいるらしいが、僕はそこまでではない。
特にはるやまなんかだと、その道のプロに聞いた方がやっぱりいい。一緒に目当てのものを探してもらった方がいい。目当てのものがあって店に来てるときは聞いた方がいい。話しかけてもらった方がありがたい。
店内に入った時に、声をかけられた僕は、とてもびっくりした。まさにハッとしてしまった。
声をかけてくれた店員さんが、めちゃくちゃ可愛かったからだ。
めちゃくちゃ可愛かった。いや、可愛いではなく、美しいのほうかもしれない。
美しかった。綺麗。また美女の話をしてしまっている。
僕はその人を前にして、少し緊張していた。でも、その緊張が出ないように、必死に抑えながら、腹のなかに押し込みながら、声を出した。僕は案外うまいのだ。緊張を押し殺すのが。
「あ、あの、スーツを買いにきました、あまり高くないを、バイトで使うので、、」
みたいなことを言った。完全に出てる。声に出てる。声にあらわれてしまっている、緊張が。全然うまくない。押し殺せていない。
僕の最初の言葉は、「えー、」や「あ、」で始まる。
そんな僕に関係なく、その店員は「わかりました、こちらへどうぞ」と僕を誘導した。後ろを歩いていく時に、ほのかな香りが僕の前に現れた。それが軽く鼻に入った。心地よい。匂いを嗅ぐのはタダだ。
スーツが並んでいるところまで行った後で、「じゃあまずは首回りを計りますね」と言って、急に手を僕の後ろへ回してきた。とても急に。何か縄のようなもので。
普段、女の人に首の後ろまで手を回されることなどない。めったにない。
僕はここでは、なんとか心臓の音が届かないように、息が決して当たらないように十分に気をつけた。なんとか計りを終えて、店員が僕に合わせたスーツを持ってきてくれた。
僕は名前を見た。なぜ名前を見てしまうのだろう。僕がそうしているのは全員ではない。名前を見てしまう店員と名前なんか気にかけない店員がいる。僕は今もあの店員の名前を覚えている。確かに。
次は試着室へ。
「それでは、ごゆっくり試着なさってください」
僕は自分の顔を鏡で見た。普段と特に変わりはなかった。いや、少し額に汗がにじんでいる。ゆっくりと深呼吸を二度おこなった。
僕はスーツを何着か試着した。
その間、何度か声をかけられた。「どうですか?」
僕は「あ、いいです」とだけ答えてカーテンを開ける。
「どうですか?」とはなんだ?
最近どうですか?ぐらい答えにくい質問はない。
どう?とはなんだ?
しかも、あ、いいです。とはなんだよ自分。
試着も終わり、これというものに決めた。
会計を済まして店員に軽く礼をして店を出た。
はるやまでスーツを買った。特になんでもないことだ。
店員と客の関係。僕にとってはたった一人の店員。しかし、あの店員にとっては複数の客のうちの一人でしかないはずだ。
特別な客ではない。特別な店員があるだけだ。
僕は大勢のうちの一人にすぎない。一人の客にすぎない。
僕はこれからもはるやまに行くと思う。
美味しいからとか、オシャレだとか、また行きたいと思う要素は人の中でいくらでもある。その中に僕は人の良さが入っている。
人で選ぶ店がいくつかある。
美女に会った。美女と話をした。それだけで1日、いや、一週間は機嫌よく生きることができる。
家から外に抜け出して、いつもと違う場所へ。そこには様々な出会い、思いもよらない出会いがある。
美しいものに出会うと、自分の機嫌が良くなる。