手書きによる手紙でしか伝えられないことってあるんじゃないか
手紙って、自分で書いたものは渡してしまえば二度と読めないのよね。その人に本当に見せて欲しいとお願いしない限り。
僕はどこかでこの言葉を聞いた、もしくは読んだ。
なるほどな、と思った。
僕は手紙を書いたことが何度かある。でも、その手紙に何を書いたかなんて全然覚えていない。誰に書いたかは覚えていても、手紙が僕の手元にない訳で、それは読むことができない。手紙は渡してしまえば、もう読めなくなるのだ。
逆に、もらった手紙は何度でも読み返すことができる。僕は今でも、家族からもらった手紙を大切に持っていて、たまに読み返すことがある。読めるのだ。
子供の時に両親に向けて、妹に向けて、先生に向けて、友達に向けて、いろんな手紙を書いた。その書いたという事実だけは僕の頭の中にある。覚えている。しかし、僕はその書いた内容を見ることはできない。書いて渡してしまえば、それは他人のものとなるんだ。
手紙だけではなく、僕たちが発する言葉についても同じことが言えるんじゃないかと思う。
普段の友達との何気無い会話、何を話したか視覚化しない限りすぐ忘れてしまうのものだ。言葉ははかなく消えてしまう。
今ではもしかしたら違うのかも知れない。手紙はパソコンで文字を打ち、印刷し送ることもできる。そうすれば、自分がどんな手紙を書いたのか、いつでも見ることができる。もちろん手書きの手紙でも、コピーすればいつだってある限り読めるだろう。
自分の書いたものが見えることと見えないこと、そういった違いがある。
今ではラインやツイッターなどのSNSで、もしくはメールもだが、自分で自分の言葉を見ることができる。いつでも振り返って読むことができる。
そうだ、日記もそうだ。自分で書いたものは見える。読むことができる。
自分が書いたものを読むことができることと、できないこと。
どちらがいいとか、そういうことではなく、
そういう違いがあるな、ということを感じた。
大学に入ってから、自分の字で、手書きで、手紙というものをほとんど書いていない。
手紙書こう。久しぶりに手紙でも書こう。
自分の手で書く手紙によってしか伝えられないことってあるんじゃないかと思っている。あるんじゃないかと信じている。