私より頑張ってる人に「頑張れ」って言えないじゃん
映画『耳をすませば』に出てくる言葉が、今日のブログのタイトルである。
この言葉について考えたことを、ふらふらと、少しばかり書いてみたい。
「私より頑張ってる人に頑張れって言えないじゃん」
この言葉を聞いてどう思うだろうか。
確かに自分よりも頑張っている相手に「頑張れ」って言葉はどうなんだ?と疑問を持ち、そんなことは言えたもんじゃないと、この意見に同意する人もいると思うし、いやそれでも「頑張れ」って言葉はきっと相手の力になるから言ったほうがいい、と反対をする人もいるかもしれない。
でも、これ、時と場合によりけり、人によりけりである。最初からこんなこと言ってちゃ元も子もないのだが。
「それは場合によるよね」って言っておけば、たいていの問題は片付きそう、答えが出せそうである。どうだろう。
そんなことないか。
言葉を尽くすべき時には言葉は尽くすべきだ。
いや、それも本当にそうだろうか。
話を戻そう。そうはいっても、少しは真面目に考えてみよう。
「頑張れ」って言葉は無責任なものであるかもしれない。その「頑張れ」だけを切り取れば無責任に感じてしまうかもしれない。「頑張れ」というその言葉だけだったら不十分だと思う。相手がどうであれ。
「頑張れ」という言葉はどこか相手を突き放した感じもする。そのように受け取れることがある。
だからその言葉に何か付け加えてみてもいいだろう。「私も頑張るよ」「お互い頑張ろう」「応援してるよ」とか。相手が自分のことを偉そうだなぁとか、お前に言われなくてもわかってるよとか思わないように配慮したりしながら。
もちろんどういう言葉を尽くしたところで、どういう思いがあったところで、それが相手に伝わらないことだってある。時として思いは自分の思うように伝わらないものだ。たいていそうだったりする。
言葉を尽くしすぎることだってある。それもそれでよくない。
僕は「頑張れ」って言われた時、よし頑張ろうって思う。僕の場合はそうなのだ。他の人は置いておいて。そこまで頑張っていないからだろうか。そうかもしれない。俺はまだまだ頑張れる、って思うのだろう。「頑張れ」という言葉に期待や応援みたいな意味を勝手に自分で読み取り、その人の期待や応援に応えようとする。
でもよくよく考えると自分より頑張っていないような人から「頑張れ」って言われたことない気がする。僕より頑張っていない人はそんなにいない。これは決して自分を落としめているわけではない。僕の感じ方だ。僕の感じ方を外野がどうこう言っても、それはそれに過ぎない。
期待されたり、応援されたり、そういうことは人を奮い立たせるものだ。”人は”といったが、あくまで"僕は"そうだ。
頑張ってる時に「頑張れ」って言われたらやっぱりイラっときてしまう、そういう人もいるだろう。私はもう十分頑張ってるよ、と。そういう人にはどう声かけをすればいいのか。なかなか難しいところだ。
勉強している生徒にもっと勉強しなさいと言っても「いや勉強してるし」と返されるだけだ。
そもそも「頑張れ」は命令系である。相手から命令されるということが不満である人もいる。
こういう時と場合でいろんな答えがでる、正解のない問いはいくつも存在する。
ここまで「頑張れ」って言葉について、お前結局何が言いたいんだよ、というような文章をつらつらと書いてきたが、僕も結局のところ何が言いたいのかよくわかっていない。時と場合による問題では、時と場合が必要である。
私より頑張っている人に頑張れって言える?
僕は言える。というか、今まで言ってきた。僕よりも頑張っている人たちに。「頑張れ」という言葉を特に何も考えず使ってきた。
相手はどう思っただろう。お前に言われなくてもわかってるよ、と思われてただろうか。
僕には言って欲しい。「頑張れ」って。その言葉だけでいい。たぶん頑張るから。たぶん。
こういう問題に関しては、個人的なこと、僕自身のことを言うしかないのだ。自分はこうだ、ということに限る。
僕は頑張っている人に頑張れって言うし、言えるし、逆に誰かが僕に「頑張れ」って言ってもそれに対して特になんとも思わない。たとえ、僕がある程度頑張っていたとしても。頑張ろうと思える。
君はどう思う?