「おいしい」より「不味くない」を目指す
おいしくなることを目指しすぎないほうがいい。
「不味くならないように」ということを徹底してやるのは大切です。
「どうすればおいしくなるか」とか「どれだけおいしく作ろう」とか、
考えすぎないほうがいいんです。そっちに神経が行きすぎると、
「不味くならないように」の部分でいっぱい落とし穴ができますから。
ほぼ日手帳に「日々のことば」というものがある。僕は週間手帳を使っているから、一週間のページにひとつ、何らかのことばが書かれている。
そのことばはハッとさせられるものから、笑わせてくれるものがあったりする。
その中で今回、上であげたのは、土井善晴さんのことばである。ほぼ日の『家庭料理のおおきな世界。』という連載の中でのことばだ。
https://www.1101.com/doiyoshiharu/2017-01-10.html
おいしくなることを目指すばかりじゃなく、不味くならないことを目指す。不味くならないことを徹底してやることだ、という。
これは非常に当たり前のように思えて、なかなか意識していない、面白い考えだなと思った。ハッとした。
誰しも料理をつくるときに、おいしくしようと考える。そう考えてしまうものだ。
自分のためでも、誰かのためでも、料理を作るときに、どうしたらおいしくなるだろうと考える。
出来るだけおいしいものを食べたいから、おいしいものを作ろうとする。
だけど、おいしくしようと頑張り、そうしてできあがったものは案外おいしくなかったりする。失敗することだってある。もちろんうまくいくこともあるのだが。
美味しさだけを重視し、そればかり考えていると、いらないことをしてしまったりする。
変なものを付け加たり、やたら変な工程を踏まえたり。
だけど、そういうことは、食べるという点において、求められたり、必要なことではあるとは思わない。特に家庭という場所においては。
「おいしい」より大事なのは「不味くない」だ。
確かにおいしくしたい気持ちはわかるし、そういう気持ちになってしまうのは仕方ない。誰だっておいしい料理を食べたいと思っているのだから。
糸井重里さんはこの土井さんの話の流れで、「書く」ということにつなげて、褒められようとする文章は鼻につくと言っている。
おいしくさせようとか、褒められようとか、そういう気持ちは如実に現物としてあらわれてくる。そういう気持ちがどうしても結果としてでてきて、わかってしまうのだ。
どういう意図でつくるか、どういうことを意識するかで、出来上がりがずいぶんと変わってくる。
このブログだってそうだろう。僕が本気で誰かに読んでもらおうと意識して書いているのであれば、もっと違った文体であったり、違ったテーマ、書き方をするだろうと思う。この文章はどう伝わっているのだろう。
書きたいことを書く。書きたいから書いている。
読んでほしい、共感してほしい、ほめられたい、そういう気持ちはこのブログの文章に込めていないつもりだ。
おいしいものを無理に目指さず、それを考えすぎず、
不味くないものを目指す。それで十分なのだから。そこを徹底してやっていけばいいのだから。続けるにはそれが大事なのだから。