あぁ、あの時のあれってそういうことだったのか
あぁ、あれってそういうことを言わんとしてたのね。
あれ、これってそういう意味だったのね、なるほど。
そういうことがよくある。
本を読んだり、映画を観たりする。
僕はその時ちゃんと理解して記憶にとどめようとする。
だけど、なかなか記憶というのはそんなに簡単に覚えてられるものでもないらしく、すぐに断片的なところだけを残して、他を切り捨ててしまったりする。断片的なことすらも、消えてしまったりする。
本や映画は確かにその場ですべてがうまく吸収できれば、それはそれで良いことだと思うし、望まれることなのかもしれないけど、それができる人はそうそういないだろう。
僕はそういう記憶できることに限りがある人間の中でも、かなりの忘れっぽいというか、記憶を残しておけない人物なのだと思う。
よくそんなこと覚えているなぁと思う人がいるが、僕はそういう人に憧れたり、どうしてそんなに覚えていられるんだと疑問を抱くこともある。
でも、本や映画をその場で絶対に理解しなくても、それはそれでいいのではないかということを最近実感している。もちろん、理解することを諦めてはいけないのだけれど。
本や映画に限ったことではない。
覚えておきたいと思う出来事も、多くの人は忘れてしまうことがあるだろう。その場で何でもかんでも記憶に留めたり、状況を理解したりということができればいいけど、そういうことはなかなか難しい。
無理に覚えようとしなくとも、あとで、なんとなくわかることがある。それは別の何かに触れたときかもしれないし、特に何に触れなくても、何か別のことを考えている時に、ふっと現れて理解ができるなんてことがある。
『歩く花』というブルーハーツの曲があるが、その歌にこんな歌詞がある。
覚えたり教えられたり
勉強したりするんじゃなくて
ある日突然ピンときてだんだんわかることがある
まさにこれが起きる時がある。
ある日突然ピンとくる。ハッとひらめく。
あぁ、前読んだ本でそういうこと言ってたわ、なるほど、そういうことだったのか。
これって前観た映画でも同じこと描かれてたわ、だからそうなってんだ、なるほどな。
ひとつのものを理解しようとするときに、それ単体ではなかなか理解ができないことがある。深くは知れないことがある。
その道を少しでも極めようと思ったら、ひとまずその道の本を10冊は読め、なんてことを聞いたことがある。
それは決して間違いではないだろうと思っている。
ひとつの本でわからないことが、別の本を読むことでわかったりする。逆にわかっていたことが、わからなくなったりなんてこともあるのだが。
同じ共通したことに触れることでなくとも、それは起こりうる。
意識してそうやって読書をしなくても、突然、これってあの本で読んだことじゃん、とか、あの映画ってまさかこういう意味ことだったのか、とか、急にそこに意味やつながりが生じることがある。
あとになってようやくそれがわかったりする。
これとかあれとか、あのとかそういうとか、もうこそあど言葉祭り状態であるが、なんとなく気持ちがわかってくれる人がいれば嬉しい。
このことは、本を読むとか、映画を観るとかいうときに、その場で理解する以上の喜びがあったりする。
この感動は本当に素晴らしいものだ。
うわぁ繋がった繋がった、すげぇよ、となる。忘れていたことが、何かに触れることでふっと思い出され、理解できていなかったことが、ふっと理解へと結びつけられたりする。じわじわっと思い出されたり理解されることもある。
この感動を最近感じている。というか最近感じた。
一度読んだ本をあとでもう一度読んだりしていて、新たな発見や深い理解やひらめきがあったりするのも同じことだろう。
これだからいろんな本を読んだり、いろんな映画を観たりするのをやめられない。
もちろん意識をしていないと、なかなな結びつかないことがあり、結びつかないことが多かったりもするのだが、やっぱりその結びつきや、あとになっての理解の深い感動はたいそう良いものだ。
これは注意すべきことだが、その理解をうのみにして、理解できたと思っていても、それは案外理解できていないものだということもある。
それもまた、別の新たなインプットによって理解が改まったり深まったりするのだ。
とにかく触れようよ、と自分に言い聞かせている。
触れないと、その結びつきはない。結びつきによる感動は得られない。
ただ生きているだけでは、そういうことが感じにくいのだと思っている。
触れて触れて、感じて感じて、考えて考えて、理解して理解して、それでも結びつかなかったり、わからないことだらけだけど、あの感動を味わうために僕は今日も様々な経験をするし、これからもしていくのだろうな、と思う。