常に目の前のおっぱいが世界一なのだと思う(スピッツの「おっぱい」を聴きながら)
常に、いま、この目の前にある、君のおっぱいが世界一なのだと思う。
宇宙一なのだと思う。僕のおっぱいではなく、君のおっぱいだ。
それ以外は考えられない。
一番はやっぱり、このいま僕が見て、触れているおっぱいなのだ。現に目の前に存在していて、触ることのできる、そのおっぱいなのだと、本気で思う。触ることのできる。
素晴らしい経験というのは、必ず存在する。
それは、なかなか、その素晴らしい経験をしているときには、素晴らしいと気づくことが難しかったりする。
あぁ、あの時のあれは素晴らしかったなぁと、あとで思ったりする。
素晴らしいと思った時は、それは以前の素晴らしさをただ懐かしんで素晴らしいと言っていたりすることもある。それもたしかにいい。あの時の素晴らしさをしみじみと感じるのもいい。
だけど、やっぱり今だよなと思う。あの時のおっぱいと、今のおっぱいでは、間違いなく今のおっぱいだと思う。今のおっぱいがどうであれ、だ。
あの時のおっぱいの方がいいという人がいたら、目の前からそのおっぱいを取り上げてやろう。うん、そうしよう。
君のおっぱいではなく、目の前のおっぱいなのだ。
そういうもんなのだ。知らんけど。
目の前の素晴らしさ、その光景、これこそが本当にかけがえのないことで、素晴らしいことなのだということを本気で考えられている人がどれだけいるのだろうか。それは僕にだって言える。目の前の素晴らしさを見過ごしていることが多い。
目の前のことをおろそかに考えていないだろうか、と考える。
今、君の目の前にある、そのおっぱいがどれだけスバラシイものであるか、それを本当にまさにその時感じることができているのだろうか。
残念なことに、当たり前に目の前におっぱいはない。それは本当に残念なことだ。
この話、いまこの瞬間を大切にしようよ、という結論で終わりたくはない。でも、そういう結論になるような気がする。仕方ない。
おっぱいが目の前にあれば、本当に素晴らしいだろう。もしそれに触れることができたら、それはなおさら素晴らしいだろう。
目の前に常におっぱいがあるように、生きたいものだ。周りに目を配らないくらい突っ走るのもいいものだ。そういう人はかっこいい。
みんな、目の前にいろんなおっぱいを持ってこよう。人生、おっぱいだけで埋め尽くそう。これは比喩であって、比喩ではない。
スピッツの『おっぱい』という歌を聴きながら、これを書いているわけである。
これは名曲だよなぁ。