LGBTという名前は、それを他のものと区別するためにあるわけではない
名前というのは、それがなんであるかを示すためのものではなく、それがなんでないかを示すものである。
何かを指し示すものではなく、あるものとあるものを分けるためのもの。
新聞配達を始めてから、新聞を読むようになった。
つい最近の記事に以下のようなものがあった。
新聞をとり始めてから気になった記事は、切り取ってノートに貼ったりしている。
これはおそらく高校生によって書かれたものである。
この「LGBTの言葉自体が差別」という記事を受けて、僕は確かにそうと言えるのかもしれないと思った。あぁそんなことはあんまり考えたことがなかったなぁと思った。
でも、少し違うのでは?とも思った。
言葉とは、それが何であるかを指すのではなく、それが何でないかを示すもの。
LGBTもLGBTという言葉を通して、それがLGBTであるということを示すのではなく、それが他とは異なるLGBTなのだと、区別や差別していると言える。
ただこの名前というものに関しては、どうやっても何かを語るときに、必要とされるものだ。 名前をつけて色々なものを区別したりしている。
だから、そこは変えられないだろうと思うのだ。
ただ、その人にとっての普通を大事にすればいいのだ。
そして、その普通を決して相手に押し付けないこと。
名前は普通と普通じゃないものを区別するものではなく、ただ普通なものに名前をつけているだけなのかもしれない。
ただ名前をつけて区別するだけで、そこで区別されたものに、普通も普通じゃないも、優れているも劣っているもないのだ。
普通はたくさんあって、それぞれの普通にかけがえのない、等価値の名前がつけられているのだ。そうやってこれからも名前がつけられていくのだと思う。
普通ってなに?ってそんな問いに答えれらる、「普通」というものは存在しないのだと思う。
普通ってそもそも何か。何かと聞くときはそれが存在することが前提になっている。だとしたら、普通は存在するのか。
普通なんてのはただ僕たちがが思っていることで、普遍的なものではない。
LGBTという名前は、差別なんかではないだろう。その名前には、ただ他とは違うから区別がなされただけで、そこに優劣とか、普通とか普通じゃないとか、そういうことはないのだと思う。