蜘蛛の巣は切れるゴールテープである
昨日のブログでは、新聞配達のアルバイトについて書いた。
新聞配達をしていると、よく蜘蛛の巣に引っかかる。
これからの季節、それはますます増えていくのではないかと思う。
たいてい蜘蛛の巣というのは、家の前にある。新聞を家の前のポストに入れるときによく蜘蛛の巣に引っかかる。
蜘蛛の巣に引っかかるというのは、けっこう嫌なものだ。不快感や嫌悪感が生まれてしまう時もある。
ただ、どうして蜘蛛の巣はあるのだろうか、蜘蛛はどういう目的で巣をつくるのかを考てみると、不快感や嫌悪感も少し変わったものになるかもしれない。
蜘蛛の巣をつくることにはもっと様々な理由があるのかもしれないが、ひとつに、獲物を捕まえるという目的があるだろうと思う。
蜘蛛は巣を張ることで、そこに飛び込んできた虫たちを捕まえることができる。そして、捕まえた獲物たちを食べることができる。
蜘蛛たちにとって、巣は生きる手段である。
僕たちは普段どうやって食べ物を手に入れているだろうか。大体がスーパーやコンビニ、飲食店からだろうと思う。スーパーやコンビニでは、レジへ商品を持っていけばそれが買えて、食べることができる。飲食店も同じようにその場所へ行き、注文をし、お金を払えば、またはお金を払うという前提で、食べることができる。
僕たちが食べるためにはいろんな手段が必要だ。
僕たちは手段がなければ、食べ物を食べることができない。
もちろん、手段がなくとも(ここではお金であったりするが)、その辺にあるものをとって食べることだってできるであろうが、そういうことはほとんどの人たちはしない。
僕たちにとっては、手段というのはお金が大きいが、店まで行く交通手段だったりもする。今では、ネットで変えたりもするから、その際にはスマホやパソコンは食べるための手段となりうる。
僕たちはそういう手段に支えられて、食べ物を手に入れることができていると言える。
そこで、そういう手段というものが奪われた時、僕たちはどうやって食べ物を食べることができるのだろうか。
もちろん、上であげたような手段を奪われても、食べ物を手に入れるいろんな可能性が考えられるから、ここでいちいち全てを列挙することはしないし、そういうことはあまり考慮しない。
手段を奪われると、食べ物を手に入れて、食べて、生きるということが難しくなってくる。お金がなかったり、飲食店までの道が塞がれていたりなんてことも想像はできる。最近は便利になったから、どの店も閉まっているなんてことは考えにくいが、そういうことも場合によってはあるかもしれない。
蜘蛛たちだって手段はちがえど、人間と同じことだろう。
巣という手段を使って獲物をとっている彼らは、巣というものが切られたり、無くなったりすると、食べる手段をなくすのだ。餌までの道、生きる道が閉ざされる。
もちろんここでも、巣以外で食べ物を手に入れることができる手段は考えられるが、それもここでは書かない。
僕たちが蜘蛛の巣を切る時、蜘蛛の巣に引っかかってしまうとき、蜘蛛の生きる手段は奪われていることになる。
蜘蛛たちの生きる可能性が減っていると言えるかもしれない。
蜘蛛の巣が切られることは、リレーでゴールテープが切られレースが終わりを向かえるように、蜘蛛の命もそこで終わってしまうことだと考えられるのだ。
無意識に切ったり、引っかかっている蜘蛛の巣を僕たちはバカにできない。それを振り払うことだってできたもんじゃない。
蜘蛛の巣に引っかかるということが、蜘蛛を殺すことに繋がっていたりするのだ。
ただ、蜘蛛を殺すことにつながっているから、できるだけそれを切らないでおきたいものだ、と簡単に言うことは難しい。
残念なことに蜘蛛の巣はなかなか見えないのである。
だから、蜘蛛の巣を切らないように、蜘蛛の生きる手段を奪わないようにいきていこうよ、なんて言えない。
これが非常に難しいところである。
もちろん見えないから、蜘蛛たちは獲物を捕まえることができるのであって、それが簡単に見えるものであっては、それは自分の食べる手段をなくしていることにつながる。
見えたら見えたで、虫たちはそれに気づき、蜘蛛たちは餌を捕まえることができなくなる。
また、見えなかったら見えなかったで、人はそれに簡単に引っかかり、餌を捕まえることができなくなってしまう。
どちらにしろ、生きる手段を奪っていることに変わりはないというのが面白いところである。
蜘蛛の巣に引っかからないことは困難だ。これからも朝の薄暗い中での新聞配達において、僕はなんども蜘蛛の巣を切ってしまうだろうと思う。
今までの経験からして、1日に1度は切らざるを得ないだろうと思う。
じゃあ、どうしようか。無意識に食べる手段を消してしまっている僕たちに何をすることができようか。
僕は釣りをしたことがそんなにないけど、蜘蛛の巣を切られるのは、魚がかかるのを待っているその釣竿を見知らぬ人に勝手に切られてしまうことと同じようなことだ。これはつらくないか。
見えないものを避けることはできない。だから、引っかかりを避けることは難しい。
今回、僕がなんとなく言いたいのは、蜘蛛の巣を切ることが間接的に蜘蛛を殺すことにつながっているかもしれないから、蜘蛛の巣を切らないようにしようというのではなく、そんなに蜘蛛の巣を嫌ったりするのではない、ということである。
いままでクソが!とちょっとイライラもしていた自分をいま恥じている。
僕はすべての物事は受け取り方でどうにでもなると思っている。受け取り方を変えてうまくここまで生きてきたと思っている。 これからもそうであると思う。
僕はこれから蜘蛛の巣に引っかかった時に、素直にごめんね、と思うだろう。
蜘蛛の巣を切ることは、蜘蛛の命を切り、人生ならぬ、蜘蛛生のレースを終わらせてしまうことかもしれない。